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涙のしっぽ

DogWoodのしっぽの気持ち

子どもの頃は、犬が恐かった

 私 DogWoodは、子どもの頃から犬がおそろしかったのだと思うのです。
 お隣の家にはジョンという雑種が番犬として飼われていました。そのお家には同級生の幼馴染がいましたので、時々遊びに行ったのですが、大きくて怖くてどうしても近づくことのできない私でした。

 子どもの頃、母も祖母も動物嫌いでした。いえ、正確にいうと動物嫌いなのではなくて、動物を家族として暮らすという概念を持たない人たちだったのだと思います。庭にはたくさんの草花が四季折々に咲いていましたし、野菜や果物の木もいつも実がなるようにまめに世話をしていた人だったからです。ただ、動物を家族として暮らすという概念を持たない人たちだったのでしょう。今では保健所の指導でありえないことですが、当時、祖父母の家では床下にニワトリを飼っていて、それは食べるためでした。たまごを産ませ、年末には正月用の食用のために、鶏をしめるのが、男たちの仕事で、子どもたちは毛を抜く手伝いをさせられたものでした。そんなとき、私は怖くて近寄れなかったたし、少し知恵がついてきてからは、家の中で大掃除や正月料理の手伝いをするという理由を見つけて‘その現場’が目に入らないですむように、なんとかして逃げていたものでした。

マルチーズとの出会い、そして変化

 小学校高学年の頃、ちょっと離れた地域の友達の家に遊びに行くようになったとき、大好きな友達ができたので、その人の家に遊びに行きました。すると、その子の家にはマルチーズがいました。私にとっては、生まれて初めて室内で犬を飼うという生活スタイルを目の当たりにして新鮮に感じはしたものの、家の中でワンワン吠えて偉そうに人間たちの周りをちょろちょろ走り回るその様子に、私は落ち着くことができませんでした。今思い出すと、真っ白で綺麗なリボンをしていたそのマルチーズはよく手入れがされていたと思います。それでも、家の中で犬が大きな顔をしていて、お客である私たちの心を騒がすという事実は、いかに家主が可愛がっていても見かけの美しい犬であっても、同じ室内にいるということ自体が心地良いものではなかったという思い出があります。

 それ以来、学校で飼育されている動物は、係りや当番の仕事としてはちゃんとやりましたが、なるだけ近寄らないようにしていました。一方で、動物が人工的に見世物にされている動物園もあまり好きではありませんでした。そして「動物はいつくしむものだから、文化的な人は嫌いとか苦手とかは人前で表現してはいけない」という本音と建前の社交術だけは身につけていったように思います。

 高校のときに遊びに行った友達の家には猫が飼われていましたが、猫はおとなしいし、遠くで見るだけでよいからまあまあ楽だなと思った記憶があります。
 20代後半になったとき、アメリカ人の友達の家に招かれました。
 初めておうちに招かれたのでワクワクして行ったのですが、玄関を開けた瞬間に、何か巨大なものに飛びつかれ、仰天しました。その友達はアパート(ペット可)で、ドーベルマンを室内飼いしていたのです。
 たまりませんでした。
 でも、大人になっていたから、「動物はいつくしむもの」「大好きな友達が大事にしている家族なんだ」という思いと理性だけで、恐怖を打ち消すために多大なエネルギーを投入して、その場をなんとか凌いだのではなかったかな。「あ、言い忘れてたけど、犬、大丈夫?」後からそう聞かれて、上等な返事ができたかどうか。。。友達はとてもかわいがっていて、しかも、よくなれた犬ドーベルマンでしたが、私はお暇するまで震えが止まらず命拾いしたような思いでした。

結婚して犬を飼うことに

 そんなわけでしたから結婚して家庭を持つようになったときも、動物と暮らすなんてことは思いもよりませんでした。配偶者が「犬を飼いたい」と言い出したときも真剣には受け止めず、聞こえないフリをしたこともありました。
 それが、あるとき、妹の家族が遊びに来たとき、ヨーキーの仔犬を連れてきたのです。引き取ったばかりの3ヶ月過ぎの仔犬で、甥っ子と姪っ子と我が家の家族も一緒になって、夢中で「お手!」や「お座り」を教えている様子を見て、ハッとしたのです。配偶者のこんな顔、見たことなかったかも!!! 私は自分の価値観だけを押し付けていてそれに気づかなかったのかもしれない。この人の気持ちをもっと大切にすべきなのかも。そう感じました。
 妹家族が帰って行った後、配偶者が言いました。
 「やっぱり犬が飼いたい」
 反対する理由は見つかりませんでした。というか、反対してはいけないと思いました。

 しかし、心の中の恐怖や嫌悪感はそうそう消えるものではありません。子どもの頃からこうして生きてきた私だったのですから。やっぱり犬が怖かったのです。どんなに小さな犬を相手にしても、恐怖心は心の奥底に厄介な頑固さで潜んでいて、そんなに簡単には変えられないみたいでした。

犬と暮らすために

 そこで私は、この気持ちに向き合って打ち勝つには、まずは敵を知るべきだ!と考え、それから数ヶ月、知識を収集することにしました。配偶者のためだと思って自分の気持ちに鞭打ちました。夢中で犬という種を勉強し、飼い方やしつけ方について、本屋で見かけた本は手当たり次第に衝動買いして読みつくしたし、ネットでもいろいろ調べました。
 調べつくしたあげく、見たことのないような犬種もほとんど見分けがつくようになったとき、ある老犬介護の本に出会いました。その本の著者は自分は犬が苦手だったけれど、一緒になった配偶者が連れてきた2頭の犬と暮らすことになり、そのなかで癒し癒される生活を知り、老犬介護のために仕事を転職したりもしたというのです。その人の犬との生活の戸惑いや嫌悪感が、次第にかけがえのない愛情に変わっていくプロセスを知り、「そうなのか。始めから『好き』でなくても良いのか。犬を好きでない自分を肯定しても良いんだ!」初めて感じた思いでした。そうか。それでも良かったんだ、と気づいたとき、私のような者でも犬が飼えるかもしれないとホッと慰められ救われたような気がしました。思えば、私が知り合ってきた人たちはほとんど犬好きだった。犬が苦手と思うこと自体に劣等感を持ってしまっていた自分に気がついたのでした。そして、犬が苦手である自分を無理に変えようとしていたことに気がついたんです。ああ、私は、犬が苦手ということを恥ずかしく思っていたんだ、動物は慈しむものであり嫌悪してはいけないはずなのだから、本当の自分の気持ちを隠して生きていかなくてはならないという思いにとらわれていたのじゃないかということに気がつかされたのでした。その著者の方は、犬が嫌いだったということを正直に書かれていました。そして、生活する中の出来事の1つ1つを通して、次第次第に犬たちと心通わせていくことになったのだと。何年も何年もかけて。そういうのでも良いんだ!と知って嬉しかった。苦手でも、一緒に暮らすというプロセスの中でお互いを知っていけばいいんだ。私は、嫌いとか苦手とかいう気持ちを克服してから飼うべきだ、そうでなくては犬がかわいそうと思い込んでいたのです。それからでした、犬を飼うということに本気で向き合うことができるような気がしたのは。配偶者のためでもなく、自分のために飼うんだ、生活を通して少しずつ家族になるので良いのだと、心の底から納得できたのです。こうして「犬と暮らす」「一生大切な家族として守っていく」というその決意が心底固まっていったのでした。

2頭の犬との幸せな生活

 その後、最初の出会いがあって、ブリーダーさん宅まで見に行って決めた仔犬が空輸で届いたとき、夫婦で仕事を休んで仔犬を空港まで迎えに行った日のことは一生忘れないでしょう。トイレやその他のしつけに悩む日々を乗り越え、今では2頭の犬と暮らすようになりました。その可愛らしさ愛らしさにすっかり魅せられ、誠実さ純粋さにこころ癒され、今では犬と暮らすことを知らなかった時代の自分は、世の中の真実の半分も知らなかったし、幸せの捉え方もまったく違っていたな、とつくづく思わされているほどです。

 こうして私は犬や小動物を家族として暮らす人生の素晴らしさや命の大切さに気づかされたわけですが、それと同時に、飼い主として地域社会に対する責任あるマナーや今まで自分が知らなかった世界である動物レスキュー運動にも必然的に気がつくようになっていきました。
 空前の加熱したペットブームの影で破綻するブリーダーも増え、たくさんの小動物たちが虐待等の悲惨な目にあっていることを知りました。

 何かしなければ!

 でも、うちはマンションで大型犬は飼えないし、すでに2頭もいるので、一時預かりを引き受けることも難しい、仕事もあるからボランティアもできない。そもそも犬を恐ろしく思う気持ちがすっかり消えたわけではなく、ちゃんとした愛護運動ができない私は、ネットでそんな情報やボランティアを頑張っている人たちのブログなどを読むたびに、だんだん「ただの愛犬家ではいけないのか?」「何か動物愛護の積極的な活動をすることができない自分は、愛犬家の風上にも置いてもらえないのか?」等と苦しくなっていきました。身の置き所がないような気がしてきました。

 動物愛護の運動やワーキングドッグの運動に、ちゃんと参加して具体的な行動をできないといけないの?
 だんだん、何も言えないような気持ちに追い込まれていきました。
 ボランティアをするには制限のある自分の暮らしぶりに罪悪感すら感じることもありました。

 私みたいな呑気な飼い主ではいけないの?
 「そうじゃないよ」
 心の中のもう一人の私がささやきました。
 「ほら、犬嫌いだったあなたが、誰より自分のパートナーを愛し、可愛がるようになったじゃない。マナーを守っているじゃない。これで一人、動物を大切に思う人が増えたってことなのよ」

自分に出来ることはマナーアップ

 そうかもしれない。
 まずは、自分と愛犬の関係をきちんとすること!自分の愛犬を正しく躾けて、子どものころの私のように、同じ空間にいるだけでも居心地の悪い不快感を感じる人に出会っても、最大限邪魔をしない躾をして、お互いの共存を図れるシチズン(市民)として育ててあげること、狂犬病予防ワクチン等をきちんと受けさせ、登録をし、迷子札をつけ、オンリードにし、散歩のウンチを必ず始末し、ほかの人の邪魔をしないように躾ける。それだけだって、ちゃんとした動物愛護運動に参加していると思って良いのじゃないかと。最低のマナーを守る。それだけだって、十分「愛犬家としての社会参加」だと胸を張れるのじゃないのか?
 こんな飼い主だって、心の中で世界中の悲惨な動物たちを心で思い、そして、ただ自分の生活の中で愛犬を正しくしつけマナーを守るというだけの実践だって良いんだよって誰かに言ってもらいたい!

 私のような思いの人は、他にはいないのだろうか?
 私のような、「愛犬は大好き」 でも、怖がりで、しかも、仕事も家族の考え方もあって、積極的な愛護運動には生活上の制限を持っている人。
 ペットを大切に思い、何かをしたいという思いは持っているけど、具体的な実践は、やりたくてもやれない人。
 積極的な動きはなかなかできなくて情けないような気もするけれど、それでも良いんだよって、私と同じ思いをしている人に言ってあげたい。

そして、涙のしっぽへ

そんな自分を励ましたくて、
「涙のしっぽ」を始めようと思い立ちました。
私のような思いの一人ひとりの人たちが、
愛犬との暮らしの中で、ささやかでも確かな実践をし、身近な人たちと一緒に考えを変えていくような、そんな愛護運動もアリなんだよ、と!!!
自分らしい動物愛護を生活実践の中でやっていくのでも良いんだ。
そんな自分に誇りを持ちたい。
 甘いかもしれないけど、現代の多様な生き方の中で、こういう「ゆっくり亀さん」も認められて良いのじゃないかな。誰もがいっぺんには同じようには進めないのだから。
 自分にできることを自分で考え、自分で決断したことを、誰に見せるでもなくマイペースで実践していく。これだってとても大切な実践だと信じて進んでいきたいと思います。

ありがとうを、君へ

By DogWood

ふと気がつくと
すっとそばに寄り添っている
ふと気がつくと
振り切れそうなしっぽの揺れに、ありったけの思いが伝わってくる
楽しいときもうれしいときも
寂しいときも辛いときも
疲れたときも病むときも
全身全霊で受けとめてくれる
君は、人の気持ちのわかるアンテナがあるみたいだ

君と出会い、世界が違って見えるほど
つまらないと思っていたもののベールが剥がれ
鮮やかでカラフルな光彩を放ち始める
そう、いろんなことの本当の価値に気づかせてくれた
人の弱さにも
人の脆さにも
無力さにも
そして、命の重さにも

毎日、お世話させてくれてありがとう
毎日、変わらぬ大歓迎をありがとう
君に必要とされるとき
ひとりじゃないって思える
こんな私にも生きる価値があると思わせてくれる

君と出会い
今、私は やさしく誠実でいられる
君と出会い
すべてがいとしく思える
自分に素直に生きることができる
世の中のすべてに感謝したい

私は君にとってベストパートナーであるだろうか
私と出会えて幸せだったと思ってくれるだろうか
君との生活の一瞬一瞬を大事にしよう
人生はいつか終わりが来るものだから
今をかみ締めながら、スローに歩いていこう
ずっと君と一緒に
ずっと君と一緒に

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